私的 武将名鑑

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全データー(165件)中、[種別]「戦国」を含むもの(65件) を登録順表示


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宮本 武蔵

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戦国の知名度No.1剣豪。
種別:戦国


 

風魔 小太郎

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北条家 忍者衆の頭目。
ほとんど創造上の人物。
本当は風間氏とも。
種別:戦国

 
 

加藤 段蔵

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通称 鳶加藤。
武田家に仕えるも
密偵だったのがバレて殺された。
1558年に死去。もちろん年齢不詳。

・・・だけの人物だったのだが、
現代では話に尾ひれがつきまくって、
北条家の風間(風魔)の出身だとか、
武田家では信玄の暗殺未遂をしたやら、
上杉謙信の前で牛を呑んだ幻術を見せたりとか、
スーパー忍者(幻術師?)みたいになってます。
種別:戦国

 
 

武田(葛山) 信貞

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1560?-1582 享年22前後 (自決)

武田信玄の六男。
駿河 葛山氏元の養子となり葛山氏を継承。
しかし信貞自身はまだ幼少であり駿河には赴かず、
実効支配は城代の御宿友綱が行った。

織田信長の甲州侵攻により武田勝頼らと共に自刃。

御宿友綱の子 御宿勘兵衛は信貞の隠し子
・・・なーんて説もあるそうな。
種別:戦国

 
 

御宿 友綱

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1546-1606 享年60歳(病死)
長男は御宿勘兵衛(政友)
次男は松平忠輝に仕えた御宿政綱

葛山氏元の甥。若くより武田信玄に仕える。
氏元が信玄の六男 信貞を養子に迎えた際には
城代として葛山城に入った。

武田家滅亡後は北条家へ、
さらに滅亡後には徳川家へ。
医師としても信玄に仕えていたそうな。
種別:戦国

 
 

葛山 氏元

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1520-1573 享年53歳 (刑死)

駿河東部を国衆として自主統治。
北は武田家、東は北条家、西に今川家という
緩衝地帯にて北条家⇒今川家、
そして武田家と蝙蝠のように渡り独立を保つ。

最終的に武田信玄の六男 信貞を養子に取り
隠居したものの、謀反の罪により血族は皆処刑。

嫁は北条氏綱の娘で、
婿養子は武田信玄の息子と聞いたら
なんだか天下に近い大人物のようだが
単に生まれた場所が元々激戦区なだけなのでした。

ちなみに松千世、竹千世、久千世という
三人の息子がいたそうだが、成人後の名さえ不明。
種別:戦国

 
 

加藤 嘉明

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1563 - 1631 享年68歳。
賤ヶ岳七本槍の1人。

元々は徳川家康の家臣の家柄だが、
三河一向一揆で父と共に家康に背き敗戦。
のちに秀吉配下 加藤光泰に仕え、
有能さから秀吉の直臣となる。

本能寺後は淡路1万5千石、
朝鮮遠征では副将として水軍を率いた。
戦中に6万石に加増。さらに10万石に。

関ケ原では東軍につき、
20万石に加増。さらに会津43万石に転封。
元徳川家臣の武家だったこともあり、
賤ヶ岳七本槍では一番厚遇された。

ちなみに後継者 明成の乱心で
加藤家は2万石の大減封で近江へ転封となった。
種別:戦国

 
 

糟屋 武則

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1562 - 1610(?) 享年50前後?

賤ヶ岳七本槍の目立たない1人。
死没年すら分かりゃしねぇ(苦笑)

槍の名手。元々は播磨 別所氏の家臣の家系という。
母が小寺政職の妹ということもあり、
黒田如水と親交があった。
関ケ原では西軍につき奮戦。
戦後に領地没収され改易。
種別:戦国

 
 

福島 正則

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1561-1624 享年63歳。

桶大工の息子ながら、
母が、秀吉の母の妹という縁から
秀吉に小姓として仕える。

賤ヶ岳の戦いで一番槍の戦功を上げ、
5000石の高禄を得る。
秀吉の天下統一後は、
伊予11万3000石⇒尾張24万石。

ここまで秀吉に厚遇されておきながら
三成憎しから早々に家康に接近。
関ケ原では東軍の主力として戦い、
大阪の陣では黙って豊臣家滅亡を見るのみ。
安芸50万石に加増転封された。

なお大阪の陣から4年後、
家康死後に安芸50万石は言いがかりから
早々取り上げられ信濃4万5000石に減封。
そして隠居。
息子も夭折し意気消沈し2万5000石を返上。
福島正則死去の折に福島家は取り潰しとなった。

所詮、桶大工の息子は一代のみの大名であった。
種別:戦国

 
 

平野 長泰

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1559-1628 享年69歳。
父 平野長治の代から秀吉に仕える。
賤ヶ岳七本槍の1番目立たない人。
3千石⇒5千石
七本槍で唯一大名になっていない。

関ケ原以後は徳川方として、
徳川家旗本として幕末まで存続した。

一応、平氏の末裔を自称。
豊臣を裏切った福島しかり、加藤しかり
なんだかんだで代々武家の家康としては、
秀吉の親類云々以前の問題として、
出自が百姓や鍛冶屋の似非武家には、
一代大名が我慢の問題だったんでしょう。
種別:戦国


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